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HAKU 北村 コラム 64「挨拶の話」

普段は靴職人、北村です。

わたくし、娘が通ってる小学校でとある役員をやっておりまして、学校運営について意見を述べたりしてるんですよ(年4回)

んで、目指す学校像の1つとして「あいさつが響き合う明るい学校」みたいなのが設定されてるんです。その甲斐あってか、挨拶してくれる子が多いなあと思ってるんですよ。

しかしである!

保護者に「子供は家でも地域でもよく挨拶をしているか?」というアンケートを取ると「できてない」寄りの評価が50%近くあるんですよ。

一方!

子供たち自身に同じアンケートを取ると「できてる」寄りの回答が90%近いんです!

つまり大人と子供の間で挨拶に関する認識のズレがあるということです。

えーそんなわけでね、今回は「小学生のための挨拶」について考えてみることにしました。

まずは根本を見つめ直し、

「挨拶の意味とは何か?」

というところから考えてみたいと思います。

ネット上の意見を集めてみますと、

1)相手の存在を認めていることを示す
2)感謝を伝える
3)コミュニケーションのきっかけ
4)良い印象を与える
5)緊張を解く

大体こんな感じの理由が並んでいますねえ。まあ一般的に認識されているような内容ではないでしょうか。

これを見て気付いたことが2つあります。

1つ目は、一括りに「挨拶」と言っても種類があるということです。

例えば、相手の存在を認めていることを示すための挨拶は「おはよう」とか「こんにちは」だし、感謝を伝えるのは「ありがとう」となるわけです。

僕の娘、「ありがとう」はめちゃくちゃ言ってくれるんです。苦手なのは地域の人への挨拶かな。
娘に「何で挨拶しないの?」って訊いたら「……恥ずかしいから」って回答。分かる!

「挨拶しないと……」ってのは本人も理解してるんですよ。でも地域の人とは言え、よく知らない人に挨拶するのって子供にはハードルが高いですよね。個々の性格にもよるしさあ!

2つ目は、挨拶は基本的に「相手のため」にするものだけど、結果的に「自分にもプラスになる」ということ。対人関係を良くするためのものなので、当たり前といえば当たり前なんですけど、「挨拶は誰のためにするのか?」という問いへの答えにはなりそうです。

さて次は、ネットで見かけた「挨拶不要論」についてもお話ししましょう。

・義務的な挨拶は無意味では?
・挨拶の強制はストレスになるのでは?
・上下関係を押し付けるのは正しいのか?

以上をふまえて、挨拶は不要ではないか? とする主張です。

世間的にはあまり支持されてないみたいですけど、正直これもちょっと分かるんですよね。

挨拶しない人は変に見られる→だから挨拶した方が良い(得だ)

みたいな考え方の人は結構多いと思うんですよ。でもね、

「挨拶しない人を変だと思わない世の中ならば、挨拶自体がそもそも不要なのでは?」

ってことにもなるわけです。

挨拶しない理由なんて人それぞれだと思いますけど、明確に「こいつは敵だから挨拶しないぞ!」って人はそういないと思うんですよ。単に恥ずかしがり屋だったり、強要が嫌いだったり、コミュニケーションが苦手だったりって理由なんじゃないですかね?

そういった事情を考慮せずに「あいつは挨拶をしない! 失礼なやつだ!」と断定するのは少し短絡的かなあと思います。挨拶不要論は「挨拶をしないと損する社会の是非」を問う主張でもあるのです。人間関係をスムーズにするために生まれた挨拶が、挨拶できない人を異分子とみなす機構となってしまっているわけで、本末転倒とも言えます。

とはいえ、挨拶って世界中で自然発生的に生まれたものだろうし、それを無くしていく未来も想像し難いです。人間が社会性を持った生き物である以上、挨拶という手段を用いたほうがスムーズだという結論になるのかなあ。ただ先ほども言ったように、挨拶をするかしないかだけでその人全体を判断しないようにしたいですね。

そもそも「挨拶ができている」とはどういう状態だろうという疑問も湧いてきました。ここを設定しないから、アンケートを取ったときに保護者と子供たちで認識の差が出ている気がします。

個人的には単に「おはよう」や「ありがとう」といった定型文を発するだけではなく、相手との関係性を考慮することができるということではないかと思います。

小学生の朝の挨拶を例にとると、

・家族や友達には「おはよう」
・先生には「おはようございます」

というように、関係性に応じて丁寧度を変えることができる、ということだと考えます。

一般的には近い関係であるほど砕けた挨拶になりますよね。めちゃくちゃ親しい間柄だったら別に「おはヨーグルト!」でも問題ないってわけ。何なら定型も無くなって「うぃっす!」とかになることも珍しくないでしょう。

逆に、砕けた挨拶にしないと距離も縮まらない気がしますよね。仲の良い人にいつまでも「おはようございます」って言い続ける人も少ないのではないでしょうか? 関係性で挨拶が変わったり、挨拶で関係性が変わったりするのです。

もう1つ、「挨拶をする範囲」というのも保護者と子供たちで認識の差がありそうです。娘の学校では、「家族、友達、先生、地域の人」には挨拶をするというのが基本となっているようです。

この中で難しいのはやっぱり「地域の人」だと思うんですよ。どこまでが地域の人なのかも分からないし、防犯上知らない人に声を掛けないよう教育している家庭もあるでしょうしね。

僕自身はどうなのかと問われたら「家族、友達、先生」には挨拶しますけど、地域の良く知らない人にはしない場合もあるかなあ。あ、いや会釈くらいはしますよ?

……いま気付いたけど、この声を出さない「会釈」を挨拶としてカウントするかどうかも認識のズレになる気がするなあ。ちなみに辞書で調べたら「会釈=軽い挨拶」となってました。

あとね、挨拶って相手の目を見てするのがとても重要だと思うんですよ。会釈のみでも、目が合ってればコミュニケーションが取れた感があります。

……とまあ色々考えたんですけど、大人が子供に挨拶をさせようと思っても、個々の性格もあるし、なかなか難しいと思うんです。挨拶できない理由の根底には「恥ずかしさ」があると思うんで、それを乗り越える手段を模索していくことになりそうですね。

〈まとめ〉

・家庭での挨拶
もともと距離感が近いので無くても支障は少ないであろうが、家庭内での挨拶を習慣化することにより、家庭外でも挨拶ができる可能性が高くなると思われる。習慣化は恥ずかしさの克服にも繋がりそう。

・学校での挨拶
友達・先生との関係は、社会に出たあとの同僚・上司との関係に近いと考える。関係性によって挨拶が変わることを認識して欲しい。

・地域での挨拶
関係性が薄い人とのコミュニケーションを学ぶ。
きちんと挨拶できるに越したことはないが、とりあえず小学生なら目を見て会釈できれば及第点で良いと思う。

・備考
挨拶以外にもコミュニケーションの手段はもちろんあるが、一般的な社会的マナーとしての挨拶を身に付けることは共通言語を会得するようなもので有用であると言える。ただし、単に型を強要するのではなく意味を教えることが重要。

恥ずかしさの克服には精神的な成長も必要なため、長い目で見ること。

挨拶は大事ではあるが、絶対視するあまり、挨拶ができない=ダメな人という短絡的な見方をしないように気を付けたい。

まあ結局、

「まずは大人が手本を示しましょう!」

というありきたりな結論になっちゃいますねえ!

以上、「挨拶」って漢字が書けない北村がお送りしました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。