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HAKU 北村 コラム 58「罪の話」

普段は靴職人、北村です。

今日も今日とて犯罪は起こる。
ネットニュースを見れば、ありとあらゆる犯罪が入れ代わり立ち代わり表示される。

しかし記事についたコメントを見てみると、犯罪者の種類によって世間の反応は大きく異なっているようだ。

「子供への加害をした者」には厳しい意見が多く、特に性犯罪ともなると「二度と世の中に出てこれないようにして欲しい」などのコメントも珍しくない。

また、犯行動機が「自身の欲望や保身のため」だったり、「自己の身勝手な論理」に基づくものだった場合も「罰を受けるのは自業自得である」との見方が強いようだ。

「いじめ」が原因の事件なども、加害者に同情の声はほぼ無い。権力的に上の者が下の者を虐げるという意味では同じ構図である「パワハラ」などに対しても同様である。

逆に、犯罪者が同情される事例も多数ある。

最近で言えば、安倍元首相銃撃事件である。
首相経験者を選挙期間中に暗殺するというこの事件は「民主主義へのテロ」とも言われたが、実行犯である男の身の上が明らかになると同情的な意見も多く見られるようになった。ネットでは減刑を求める署名なども行われたようである。

芸能人やアーティストによる違法薬物使用事件にも同情のコメントが多くみられる。これは薬物の使用が犯罪であるとともに、精神的疾患や依存症の類であるとの認識が広まったためでもあるだろう。薬物に手を出してしまった人はそうせざるを得ない状況があった、当人に必要なのは罰ではなく治療なのではないか、そう思う人が増えたのだと思う。

20年前は「違法薬物をやる人間なんてろくなやつじゃない」という世論であった。10年前だってまだそんな感じだったかも知れない。そう思うと世の中はだいぶ変化したものだ。

このように「世間に同情される犯罪」と「されない犯罪」を挙げてみたのだが、皆さんはどう感じただろうか?

私としては「罪を犯さなければどうしようもないほど追い詰められていた」という状況があった犯罪者は、人々に同情の念を起こさせるのだと思っている。

経済的に立ち行かなくなってしまった、信じていた人に裏切られた、身内の介護に疲れてしまった……など、犯罪を犯しても仕方がないと思わせる状況は確かに存在するだろう。

裁判において「情状酌量」という言葉が存在することからも、犯罪者の事情は刑を決める上で考慮されてしかるべきのようだ。

されど私は思うのである。
刑を減刑できるかどうかを決める「犯罪者の事情」とは、一体どこまでを含むのであろうかと。

少し遠回りになるが、私の考えを順に記す。

まずは人間個々の性質についてである。
我々の性質は、

・遺伝的資質
・生活環境

この2つの影響によって形成されると思っている。

(1)遺伝的資質について

遺伝的資質というのは、持って生まれた身体の作りである。ここで言う「身体」とは肉体だけではなく、脳の作り、つまり思考パターンや衝動(内部的欲求)なども指す。

そもそも人間は、誰一人として「同じでは無い」のだ。当り前だと思うかもしれないが、すべての場面においてそう思うのは案外難しいものである。

目に見える違いは分かりやすい。人種や言語、年齢、性別……などである。しかし、生物学的に男女で二分化されていた性別が、近年は実態に即して複雑に分類され始めている。いわゆるLGBTQ(性的少数者)の話である。

一方、子供達が通う学校でも変化が生じている。
昔は目に見える違い(身体障害や知能障害)しか把握されていなかったが、最近は「発達障害」というものが広く知られるようになり、学校生活の中でも配慮されるようになってきている。

発達障害というのは「生まれつきの脳機能の発達に関連した障害」のことである。人間は同じではない、つまり脳の作りも一様ではないということだ。

落ち着きがない、空気が読めない、読み書き計算が苦手、こだわりが強い、忘れ物が多い……など、一昔前であれば「困った子」や「変わった子」で片付けられていたものが、実は脳機能の発達の違いによるものだと分かってきている。それに伴い、個々の性質に合わせた効果的な対応が考えられるようになった。

「やればできる」で済ませていた昭和時代とは雲泥の差である。脳の違いにより「やってもできない人」が世の中には沢山いるのだ。

(2)生活環境について

生活環境とは、その人が存在する時間軸におけるすべての外的作用(家庭、食事、教育、社会、信仰……など)である。

犯罪者が幼少期に虐待を受けていたり、酷い環境で生活していたというのはよく聞く話であるし、その因果関係についても納得しやすいものだと思う。

人間が社会性を持った動物である以上、周りの環境から影響を受けずにはいられないのである。

ここで話を犯罪のことに戻そう。

人は同じでは無いという話をした。
それはつまり「他人の痛みが分からない人」や「法を破ることに罪悪感を感じない人」、「人を殺す欲望を抑えられない人」なども存在するということだ。

それが遺伝的資質なのか生活環境によってもたらされたものなのかは様々だろうが、存在するのは確かである。

例えばである。
「他人の痛みが分からず、法を破ることにも罪悪感を感じず、人を殺す欲望を抑えられない者」がいて無差別大量殺人を起こしたとしよう。

問1)この者の「罪」とは一体何なのであろうか?

多くの人はこう言うだろう。

「法を破り、人を殺したことは罪である」

なるほど。確かに日本では殺人は罪に問われることになっている。他国においても概ねそうであろう。

しかし考えて欲しい。この者は「生まれながらにしてそのような人間だった」のである。大多数とは違う個体としてこの世に現れたのだ。法を破らざるを得ず、人を殺さざるを得ない宿命を背負って生まれてきたと言ってもいい。

問2)ならば、この者の罪は「生まれてきた」ということなのか?

「いや違う。存在自体に罪は無い。殺人が罪なのだ」

問3)では、もしあなたがこの者として生まれたとしたら、大量殺人を犯さずに生きられたと思うか?

……あなたはどう答えるであろうか?

私は「同じように大量殺人を犯す」と考える。
この者と同じ遺伝的資質を持って生まれ、同じ環境で育った場合、やはり同じ結果が待っているのではないだろうか。

だとすると、この者自身も逃れようがない運命をただ歩いてきた一人の人間に過ぎなかったのではないか、と思うのである。

当初の疑問に戻ろう。

問)刑を減刑できるかどうかを決める「犯罪者の事情」とは、一体どこまでを含むのであろうか?

個人的考えとしては、犯罪者の「すべて」であると思う。すべてと言うのは文字通り、その者の遺伝的資質や生活環境のすべてである。

これらすべてを認めるということは、

「犯罪はすべて起こるべくして起きている」

ということを肯定することになる。犯罪の責任を当人に負わせることができないということだ。

「劣悪な環境にあっても犯罪を起こさない人もいる。最終的に決断をしたその者の責任だ」

と言う人もいるだろう。

けれども、それは単に「犯罪を起こさないという遺伝的資質を持っていた」、もしくは「何かしら支えになる生活環境があった」だけに過ぎないのではないか。

肝心なのは遺伝的資質も生活環境も「当人には選択できない事柄」だということだ。

自分では選べない事柄、その結果として起こった犯罪。果たしてそこに罪などあるのだろうか。

「生まれや環境がどうであれ、最終的には本人の意思で決めるのではないか?」

という疑問もあるだろう。しかしその意思を形成するのもまた、遺伝的資質と生活環境であることを忘れてはならない。

なので私は「同情される犯罪」と「されない犯罪」があることに疑問を持っている。どのような犯罪であっても、起こった時点でそれは必然だったのではないかと思えるからである。

そう考えると欧州で採用実績のある「受刑者に優しい刑務所」というシステムもなるほど理解できる。犯罪者とは加害者であるが、一方で「運命の被害者」でもあるという思想なのであろう。必要なのは排除ではなく救済である、と。

……ここまで来ると、最後は当然「犯罪被害者」の話となるのだが、テーマとは若干ずれてしまうので、また別の機会にさせていただこうと思う。

以上、たまに現れる真面目北村がお送りしました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。