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HAKU 北村 コラム 30「創造と消費の話」

普段は靴職人、北村です。

「創造」と「消費」について考えている。

僕は昔から作ることが好きな人間で、現在も靴作りが仕事である。DIYなんかもするし、料理するのも割と好き。10代20代の頃は趣味程度だが絵や漫画を描いたりもした。

小学生の頃の話もしておく。当時は方眼の入った厚紙や段ボールを工作素材としていたく気に入っており、それを使ってガンダムなどのロボットやオリジナルのカードゲームを作って遊んでいた。他にはドラクエに出てくる武器を作ったり、サイヤ人の戦闘服を作って年下のいとこに着せたりもしていた。

1つ下の弟や友達もそんな感じだったので、何かを自分で作るということは当たり前だと思っていたのだが、成長するにつれ、世の中には「ものを作る」ということに全く興味がない人間がいることを知った。

当時はその感覚が理解出来ず「それって人生楽しいのだろうか……?」と思っていた。悪い言い方をすると下に見ていたのである。

逆に、上に見ていた存在というのも考えてみると「新しいものを作り出す人」、「1つのことを追究する人」、「天性の才能を持っている人」などにはとてつもない憧れを持っていたと思う。

“ 憧れていた ” というのは裏を返せば、自分自身はそれを持っていないと感じていたということでもある。つまり「新しいものは作り出せず、1つのことを追究できず、天性の才能は無い」ということだ。

作ること自体は好きなのに、世の中に認められるようなものは作り出せないというジレンマに苦しめられた時期だったようにも思う。

そんな折、ある靴職人のブログを見つけた。「こんなきれいな靴がハンドメイドで作れるのか……」という驚きが最初の感想。手縫い靴の製法は昔からほとんど変わらず、それが今も受け継がれているのである。

「新しいものを作るのではなく、今あるものを後世へ伝える仕事というのも良いもんだなあ」と思った。

程なくして靴作りを学ぶこととなった。それはとても楽しかった。

一口に「作る」と言っても、「創造」よりも「生産」の楽しみを感じることが重要だったのかも知れないと思い至った。

自分で生産することに楽しみを感じない人は、アイデアだけ出して、あとは人に任せてしまうのかもしれない。僕の場合は、創造の楽しみ50%、生産の楽しみ50%みたいな感じである。

そんなこんなで靴作りを初めてから15年ほど経っている。

実は最近少し「生産」に飽きてきた。こういうときは新商品を「創造」することでマンネリを解消してきたのだが、思うところあって今回は「消費」に走って気分転換しようと考えた。

何をしたかというとアニメを見まくった。

すでに利用していたAmazonプライムビデオに加え、dアニメストアにも加入し、人様が作ったコンテンツを全力で消費しまくったのである。

「創造から逃げた」のではなく、「消費に全力を尽くしている」と考えるのが重要だ。

結果すごく面白かった。気になっていた作品も見れたし、全然知らなかった名作にも出会えた。

しかしである。数ヶ月も経つとアニメにも飽きてきたのである。どうするのか?

絵を学び始めた。「描き始めた」ではなく「学び始めた」と書いたのは、作品を描くことよりも絵の描き方自体を論理的に知りたいと思ったからである。具体的に言うと技法書を読みあさった。

これまた面白かった。今までセンスという言葉で片付けていた絵の上手さというものが、論理的に再現可能であると知れた。同時に、この技術を身につけるためには多くの実践や反復練習を必要とすることも分かった。現段階ではそこまでの情熱は無いし、そもそも絵という手法で創造したいことも無いので一旦放置することにした。

どうするのか?

絵の論理を知るのが面白かったので、次は音楽に目を向けてみた。絵に論理性があったのだから、音楽にも当然あるだろうと思ったのだ。作曲やコード理論の本を読み、ミニキーボードを買って音を出してみたりした。

これも面白かった。無数の音の中にもルールがあり、その枠組みに従うことや、あえて外れることで曲が構築されていることが分かった。

絵と音楽を学んで気付いたことがある。

両者の楽しみ方の一つに、好きな作品をそのまま「模倣」するという行為がある。僕も小学校の頃はキャプテン翼や聖闘士星矢、ドラゴンボールの絵を真似て描いたものだが、今はなぜか好きな絵であってもそれをそのまま描きたいとは思わない。絵を描くなら自分好みで、かつ新しいものが描きたいのである。

対して音楽では、既存の楽曲だとしても「自分で楽器を弾いて演奏してみたい」という欲求がある。自分で曲を作れたらもちろん楽しいだろうが、模倣して演奏するだけでも楽しそうなのである。

世の中にコピーバンドはたくさん存在するのに、コピー絵師というのは聞いたことがない。音楽というものは、模倣であっても、ただ奏でるだけで楽しいと感じる人が多いのであろうか?

さて、ここまでの文中で新たに「生産」と「模倣」という言葉が出てきたのにお気付きだろうか。

辞書で調べてみると、

「創造」の対義語が「模倣」
「消費」の対義語が「生産」

となっている。

創造と消費について考えてきたが、この2つは相反する概念では無いということである。

ここで一旦話を逸らすが、

小学校の頃に夢中で遊んだ『ファイナルファンタジー3』というファミコンのゲームがある。剣と魔法のファンタジーRPGだ。仲間キャラを好きな職業に就かせることができ、魔法使い系は白魔道士、黒魔道士、赤魔道士の3種類が用意されている。

白魔道士は白魔法専門、黒魔道士は黒魔法専門、赤魔道士は戦士としての能力も比較的高く、魔法も白黒使えるが低いレベルのものに限られるという設定だ。

バランスの良さから、ゲーム序盤では使い勝手の良い職業である赤魔道士だが、「複数の能力に手を出し、広く浅いがゆえに、後半役立たずになっていく」感じが子供ながらに好きになれなかった。

しかし最近はこの赤魔道士的な生き方も悪くないのではないかと思っている。
世の中、専門家や探求者(探究者)が評価されるのは当然だとは思うが、色々なことを広く浅く知っている人というのも意外と重宝されているのではないだろうか。

まあもっと言ってしまえば、重宝されるされないに関わらず、本人が満足していればどちらでも良いのである。

話を戻す。

そんなわけで、ここ最近の僕は

・アニメを見たくてdアニメストアに入り、
・絵を知りたくて技法書を買い、
・音楽を知りたくて専門書と鍵盤を買った

のである。赤魔道士的選択だ。

ちなみに言ってなかったが、パソコンで絵を描くための板タブレットも買ったし、弦楽器を弾きたくてウクレレも買った。あと、家を改装したくて電動工具も揃えてある。

興味があったら「買う」「やる」
しんどくなったら「やめる」「放置する」

「途中でやめたらもったいない」

と思ってはいけない。

「今後やりたくなったら0秒で取り組める環境が手に入った。そしてそれは死ぬまで有効! やったぜ! 」

と考えるのである。

僕自身、本もめちゃくちゃ積読(つんどく)しているし、楽器も板タブもちょっと触ってほったらかしである。

しかし、きっとまた手に取りたくなる時が来るのである(来ないかもしれない)。

これは「創造こそ尊く目指すべきもの」であると考え、「消費」という行為をどこか下に見ていた過去の自分にはできなかったことであろう。

しかし、現在の自分にとって、何かを創造すること、生産すること、模倣すること、消費することの境界は非常に曖昧になっている。

変な言い方だが、創造・模倣・生産することを(娯楽として)消費していたり、消費することで(新たな自分を)創造していたりするのである。

つまり創造・模倣・生産・消費を自由に行き来できるようになった僕に、もはや隙は無いのである。

以上、要は「やりたいことをやりたいね」って言いたかった北村がお送りしました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。