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HAKU 北村 コラム 27「死刑の話」

普段は靴職人、北村です。

わたくし「死刑」について考えてみた時期がありまして、今回はその時のことをお話ししたいと思います。

まず、日本における死刑制度存廃についての意識は以下のようになっております。

【 死刑制度の存廃】

「死刑は廃止すべきである」9.0%

「死刑もやむを得ない」80.8%

「わからない・一概に言えない」10.2%

【死刑制度を廃止する理由】

「裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない」50.7%

「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」42.3%

「死刑を廃止しても、そのために凶悪な犯罪が増加するとは思わない」32.4%

「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し、野蛮である」31.7%

「国家であっても人を殺すことは許されない」31.0%

「凶悪な犯罪を犯した者でも、更生の可能性がある」28.2%

【死刑制度を存置する理由】

「被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」56.6%

「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」53.6%

※出典:「基本的法制度に関する世論調査 」(内閣府)
https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-houseido/2-2.html

とまあ、死刑存置派が大多数なのです。

では、先に挙げた両派の意見に対して、個人的感想を述べていきたいと思います。

まずは廃止派の意見に対して。

・裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない

→取り返しがつかないのは禁固刑・懲役刑なども同じなので、死刑だけを別枠で考えるのは筋が通らない。

・生かしておいて罪の償いをさせた方がよい

→そうしたほうが良いかどうかは個々の感覚によるものであり、一概には言えない。

・死刑を廃止しても、そのために凶悪な犯罪が増加するとは思わない

→死刑廃止後、凶悪犯罪が減った国も増加した国もあり一概には言えない。

・人を殺すことは刑罰であっても人道に反し、野蛮である

→「犯罪としての殺人」と「法律として定めた罪と罰をもとに国家が刑を執行すること」を同一に見るのは短絡的だと思う。

・国家であっても人を殺すことは許されない

→それを言うならば、禁固刑は国家による監禁、罰金刑は略奪であり、同じく許されないものとしないと筋が通らない。

・凶悪な犯罪を犯した者でも、更生の可能性がある

→更生の可能性もあるが、再犯の可能性もある。

存置派の意見に対して。

・被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない

→被害者やその家族のことを考えるのであれば、加害者やその家族のことも考える必要があると思う。

・凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ

→現在の刑法は「目には目を歯には歯を」という単純なものではなく、加害者更生や犯罪予防といった面も考慮されている。「命には命を」では短絡的であると思う。

印象としては死刑廃止派は加害者側の、存置派は被害者側の気持ちを大きく汲み取っているように感じました。日本に存置派が多いのも、このあたりに要因があるのではないでしょうか。

ここまでに挙げた両派の意見について、正直僕はどれもピンとこなかったのですが、ネットで拾った以下の意見に関しては少し考え込んでしまいました。

・環境によっては、誰もが凶悪犯罪を犯すかもしれない(廃止派)

「いやいや、不幸な生い立ちの人すべてが犯罪者になるわけではない。最終的には本人の意思によるものだ」という人もいるでしょう。しかし僕はこのように考えました。

無差別殺人を起こした人がいるとします。名前をAとしましょう。僕の魂が時間を遡って転生し、Aとして生まれました( “僕” の要素は一切無く、完全なAとして存在します)。

Aとしての人生を同じように歩んだとき、僕は無差別殺人を起こさずに生きることができるのでしょうか? 僕はね、無理だと思うんです。同じ人格で、同じ環境に身を置き、同じ道を歩んだならば、同じ結果に辿り着くはずです。

つまり「本人の意思」というものは存在せず、あるのは「生まれ持った性質」と「環境」によって積み上げられた「結果」だけなのではないかと思ったのです。

そう考えたとき「無差別殺人を行う性質を生まれ持ったこと」や「無差別殺人を行う要因となる環境で育ったこと」を咎めることができるでしょうか? どちらも本人にはどうすることもできない事柄です。

「Aが無差別殺人を行う世界」の中では、Aは無差別殺人を行うべくして存在していると考えられます。Aには無差別殺人を行わないという生き方はもともと無かったのではないかと思うのです。

だとすると、Aに対して死刑を適用するというのは不条理な気もします。

詳しく調べてみると、これは「決定論(人間の行為も含めてあらゆる事象、出来事が何らかの原因によってあらかじめ決められているとする考え方)」というそうです。
そして、決定論について考えるとある問題にぶつかります。それは、

「すべてが決められている中で、人間に “自由意志” は存在するのか?」

という問題です。

現在の刑法は人間に自由意志があることを前提にして作られており、その責任を問う形で刑を適用するかどうかを判断します。

しかし「人間に自由意志は存在しない」とした場合、「責任」という概念そのものが消失してしまうのです。

この考え、社会的には非常に危ういと感じます。責任の概念が無いということはつまり、

・僕が毎日ダラダラと過ごしているのも決められていたこと

・あいつが成功しているのも努力の結果ではなく決められていたこと

・僕が犯罪を犯すのも決められていたこと

「だから仕方ないことなんだ!!!」

……ということになってしまうのです。

これだと社会秩序を維持するのは難しいでしょう。なので現実社会は「人間に自由意志があると想定して」構築されているのだと思います。実際僕たちも自分自身に意思があると感じて生きていますしね。

しかし現在、科学的には「自由意志は存在しない」という考えが主流みたいなんですよ。だとすると先に挙げた、

・環境によっては、誰もが凶悪犯罪を犯すかもしれない

という死刑廃止派の意見は重要になってくる気がするんですよね(ただそうなると、死刑だけでなく全ての刑罰を廃止しなければならなくなるんですけど……)。

<まとめ>

いろいろ考えた結果、僕は死刑制度について「わからない・一概に言えない」という立場になってしまいました。これは僕が自由意志について考え出してしまったがためです。

ちなみにもともとは存置派でした。命の平等性という観点からすると、死刑廃止の結果生じる「自分は人を殺せるが、国が自分を殺すことは許されない」という状態に不平等を感じたからです。

とはいえ、同じ不平等でも「自分は他人の腕を切り落とすことができるが、国が自分の腕を切り落とすことは許されない」という現行刑法を受け入れている自分がいます。そんな刑罰は残虐だとさえ感じます。

なので、この先日本が死刑廃止国になったとしても、割とみんな受け入れるのではないかと考えています。「腕には腕を」を求めなくなったのであれば、「命には命を」を求めなくなるのでは? という単純な予測です。

その先には北欧の「快適」な刑務所のような考え方もあるのだろうと思います。

ここまで書いても「自分は死刑廃止派である」と言い切れないのですが、それは感情的に割り切れないものがあるからだと思います。論理で感情を乗り越えるというのはなかなか大変なことですね。「大事な人が殺されたこと」を「大事な人が天災で亡くなったこと」と同じように考えられないと難しい気がします。

ちんこ! 

以上、面白いことを1つも言わなかったので、最後に下ネタを入れ込んだ北村がお送りしました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。